SEM対策情報
SEOに有効なアルファベットは「大文字それとも小文字」! 物事をあまり神経質に考えないせいか、それともせっかちな性癖なのか、重箱の隅を突っつくような細かなことを聞くタイプの人はどちらかといえば苦手なほうだ。好きな言葉に「着眼大局、着手小局」がある。言わんとするところは物事の視点は大きく戦略的に持ち、仕事はきちんと丁寧にするものだと理解している。 そう願っているが、なかなか上手くいかないことが多い。例えばこのブログのように、文章で同じ表現をする場合でも大文字を使ったり、小文字にしたり、その組み合わせだったりと随分といい加減で統一されていないケースがよくある。よくあるというより常態だ。これでは着眼小局、着手大局」で、まことに心もとないといわざるを得ない。 このブログのタイトルは、仰々しくも「実践―SEM対策研究所―」であるが、これらに関してもSEM(全て大文字)、sem(全て小文字)、Sem(先頭大文字)を適当に使用している。ご覧の通りタイトルは「大文字の“SEM”だがカテゴリは小文字の“sem”」だ。かくこのようにいい加減で(自分ではきちんとしているつもりだが事実がこれでは)、せめて文中では統一するように気にはしているが、徹底されているわけではない。 というのは、検索エンジンは同じキーワードとして認識していると考えていたからである。事実、「SEM 対策」「sem 対策」「Sem 対策」各々をGoogleで検索して見ても10位まで同じである。 ところが、検索結果が違ってくる場合があるようである。今後は、SEOとして気をつけていこうと思っている。では、どのような使い方がSEOをする上で有利になるのかを少し検証してみたい。 「SEM ブログ」と「Sem ブログ」の検索結果が違う! 1. SEM ブログ → Google 検索 2. sem ブログ → Google 検索 3. Sem ブログ → Google 検索 (1) SEM ブログ=全て大文字と(2)sem ブログ=全て小文字とは同じ結果になっている。 (2) Sem ブログ=先頭大文字は、(1)の全て大文字と小文字に対して6位と7位が入れ替わっている。 他にも、「SEO ブログ」「seo ブログ」「Seo ブログ」などを検証して見たが、大文字と小文字が同じ結果になるわけでもない。この場合だと「大文字に対して小文字と先頭大文字」が同じ結果になっていた。順位は5位と6位に入れ替わりが見られた。 YAHOO!では7位~10位が違った結果になっている。もっともYAHOO!の場合は、「ブログ」の方が検索キーワードとしての認知度が高く、“「ブログ」のSEOスコアが高い方が上位に表示される”ことを意識しておかなければならない。これらのことを総合的に勘案しながら検証結果から判断すると順位は5~10位の間に入れ替わりがあるように思われる。 それでは、検索した結果画面だけで論評すると、表示されたページのURLはキーワードとしてマッチしたということでボールド(太字)になっており、且つ「ブログ」はスニペットで(Google検索エンジンで検索結果のタイトルの下に表示されるテキスト)英文字の「blog」までもがボールドになっている。Googleの検索エンジンは「ブログ=blog」と認識している。YAHOO!では、やはりキーワードとして「ブログ=blog」とは認識していない。 キーワード ←SEO seo Seo → テキスト この結果から判断して、Googleの「アルファベット アルゴリズム」の仮説として、このようなことが推測されるのではないだろうか。 □ 大文字のSEMの方がキーワードとしての認識が高い □ 大文字に比べて小文字の方がアルファベット的になる □ 全て小文字よりも先頭大文字の方が、より強くアルファベット的になる このことは、アルファベット的意味が強くなるということは、キーワードというよりもテキスト、文字列という扱いに近づくということがいえるのではないだろうか。YAHOO!でも、同じようにSEOがキーワードとしての認識が高く、seoからSeoへとアルファベッド的意味が高まり、キーワードとしての認識が低下して単純なテキスト認識になっているように思えるが、こんような意見(Seoからseo)もかつて目にしたことがある。いずれにしろ全て大文字にすればいいことだ。これはあくまでリバースエンジニアリングとしての仮説に過ぎないが、筆者としては直ぐにでも、これに沿った使い方をしていくが果たしてどんなもんであろうか。 ◇ 片手にソロバン、片手に論語 ◇ 子曰く、父母に事(つか)うるには幾諫(きかん)す。志の従わざるを見ては、また敬して違わず、労して怨みず。 (親が過ちをおかした場合、どこまでも穏やかに諌めるのがよい。聞き入られそうにない場合でも、逆らったり、不満を抱いたりしてはならない。ひたすら敬愛のまことをつくして、その翻意ヲ願うことだ)。孔子